風が強い。関東平野は風が強い、と大阪から来たわたしは思う。しばらく前に古井由吉さんが亡くなられたけど、古井さんの文章に東京の風の強さ、特に春先の埃っぽい風のことが何度も書かれていて、わたしはこの季節にはいつもそれを思い出す。
大阪にいるときは、こんなふうに家の中にいて風の音がしんどいみたいに感じたことはなかった。天気がよくても、風が強い日は外に出られない。
在宅ワークでこうしたらいい的な情報とかアイデアとかがツイッターやいろんなところで回ってきて、なるほどなーと思うこともたくさんあるし、在宅ワーク歴20年ぐらいなんやけども、こうしたほうがいいよ的なやつはぜんぜんできてへんなと思う。でも最近は、できてへんな思うのはあんまりせえへんようにして、できてへんのに仕事してるんすごいやん、と思うようにしてるというか、思えるときはたまにしかないけど、そういうふうに思ったらいいらしいということはわかってきた。
わたしは音楽聴きながらは仕事できなくて、書く仕事の人にはファミレスや喫茶店派の人も多いけどまったく無理で、家で無音なんやけど、微妙な騒音というか外からの音が気になるときにごまかすものとして、環境音みたいなんがYouTubeにいろいろ上がってたりそいうアプリもあるというのを知って、喫茶店の音っていうのもあってんけどやっぱりだめで(外国の店のやと言葉が気になれへんからかまだいけた)、雨の音が快適。雨の音、ようさんあって、雨の音好きな人多いのやな、と思うとちょっと楽しい。
なにごともなければ、昨日はほんとうはボブ・ディランを観に行っていた。ボブさんは元気にしてはるかな。アメリカのどこに住んではるんやろう。ボブさんは、自分の歌を誰よりも自分の歌じゃないみたいに歌うのがとてもかっこいい。前に観に行ったときは、二曲しかなんの歌かわからんかった。6月に行くつもりだった演劇の中止の知らせが来る。たぶん、少なくとも夏頃まではイベント関係はできなそうだし、もっと長く続くという専門家のコメントも増えてきた。どういう生活になっていくのか、続くのか、わからない。いろんな人がたとえに出してるけど、第一次世界大戦は最初はクリスマスまでには終わると言ってて、というのを見るとわたしは『赤毛のアン』シリーズの『アンの娘リラ』で読んだのを思い出す。赤毛のアンは、アニメでやってた部分のずーっと後も話が続いて、わたしはアンが大人になって仕事して結婚して近所のおばちゃんたちとの付き合いが賑やかになっていく(ちょっと「渡る世間は鬼ばかり」っぽい)後半が好きで(最初の子どものアンの話もすごくいいけど、なんやろ、いろんなことを思い出してつらくなることもある。今読むと、マリラとマシューの存在がおもしろい)、『アンの娘リラ』ではタイトル通り娘が話の中心になってて、その兄弟、アンの息子たちが戦争に行く。クリスマスには帰ってくると言って。生活する側から見た戦争中の日々が書かれているので、今、長い物語を読んでみようかなという人にはいいかもです。
とはいえ、今回のことを戦争にたとえるのは違うと思ってる。参考になる部分はあるかもしれないけど、戦争という言葉を前面に出して感情を揺さぶったり、違うものをやたらと当てはめたりすると、見誤ることがたくさんあると思う。
NHKオンデマンドで、パンデミック関係の番組をいくつか見てた。エボラ出血熱やジカ熱など、近年世界のあちこちで感染が広がった状況が取り上げられていて、その深刻な切迫した様子を見ていると、自分はやっぱりどこか遠くのできごとやと思っててんな、と思った。
1週間ぶりぐらいに富士山が見えた。建物の隙間にちらっと見える程度なのやけど、そんなに高いところでなくても富士山が見えるのは東京に住んでるという感じがする。昨日の大雨は、富士山の周りでは雪やったらしく、真っ白になっている。桜が開花するあたりから富士山が見えなくなって、もう冬も終わったんやなと思っていたから、くっきり見えてうれしい。でも、お昼過ぎぐらいには空気が不透明になって見えなくなった。夏の間は、富士山はない。
午後に近所の住宅地を少し歩くと、あちこち花が咲いてた。つつじや八重桜やはなみずき。はなみずきはなんかあんまり好きではないのやけど、八重桜はそめいよしのよりも好きで、見つけると楽しい。そめいよしのはいっぺんに咲いて気が急くので、いろんな種類を植えてくれたらええのにといつも思う。今年は造幣局の通り抜けも中止らしい。あの道に誰もおれへんのやなと想像してみる。
魯肉飯を作る。るーろーはんと打っても変換せえへんからGoogleで検索してコピペしてる。台湾ではほんまは違う漢字を使うらしい。作るというてもカルディで売ってたルーロー飯の素で豚肉炊くだけ。かなり八角が効いてて、台湾のごはんのにおいがします。
わたしはこういうこれだけでできる的な調味料が好きでというかよう使う。カルディとかのちょっと変わったやつだけじゃなくて、スーパーでよう見るCook Doとかうちのごはんとかそういうやつ。こないだあれがおいしかって、と言うと、日常的に家事をするのでない感じの人からそんなの買わなくたって○○と△△があればすぐできるよ、と返ってくることがちょいちょいあるんやけど、違うの。できるのは知ってるの。麻婆豆腐も豆板醤とか甜麺醤とかで作れるし、家にもあるの。こういう合わせ調味料的なものは、作れないから存在してるのではないのです。スーパーで売ってるの見たら作る気がするから存在するのです。パッケージの写真見て、麻婆にしたって「四川風」とか「広東風」とかなんかちょいちょいくっついてる形容詞で、あ、ほな今日はこれにしよかな、と思うためにある。毎日家族のごはん担当してると、いちばんしんどいのは献立考えることです。先週ぐらいにツイッターで、子どもがごはんにあれこれ言うてくるからじゃああんたが毎日考えてって言うたら4日目ぐらいに音を上げてもういやだと泣きだしたという話(だいたいこんな感じのこと)がバズっていましたが、それ。家事なんて簡単にできる、みたいなことを言う家族分の家事担当じゃない人(男の人というだけでなく、若い人とか、そういう環境にない人とか)がときどきいますが、1年間4人以上の家族の家事をやってからにしようよ、と思う。ときどきやるのと毎日何年もやるのは違うし、他人、しかも複数の都合を相手にやるのもすごい困難なことやと思う。子どもはいてないわたしがえらそうに言われへんけども、それでもめっちゃ大変やん、ちっちゃい子いてたらこんなんどうやってやるん、て毎日家庭を維持してる人には尊敬の念しかないです。
で、合わせ調味料の類は、あ、それ作ろう、って気持ちをすごい助けてくれるものやと思う。野菜と肉の組み合わせ見るだけで、違うもんね。そもそも、現代日本の家庭料理、がんばりすぎやし種類多過ぎやねんな。昔の日本て、そんな種類ようさん食べてへんかったし。毎日同じようなメニューやったやん、たぶん。魚とみそ汁とごはんぐらいの感じやん。現代は和洋中なんでも作りすぎ。子供のころ、家に「365日の献立」って分厚い本があって、それ見ながら作っててんけど、毎日違うもん食べるっていうだけで無理がある(こういう本やレシピ本も、何作るかやる気を起こすためのものやんね。この本はぱっと開いておみくじみたいにして使ってた)。この数年、あちこち外国に行く機会があったのですが、そないいろいろ食べてないとこも多い。ドイツやと、朝と昼は基本火を使わなくて、パンと、せいぜいそれにハムとかチーズとか挟んであるくらい。「朝から温かいものを食べるのは変な感じがします」とイベントの手伝いをしてくれた学生さんは言うてはったよ。
ほんで魯肉飯ですが、書いてあるとおりにバラ肉で作ると、脂すごい!冷えてきたときに表面で固まるラードの層すごい!それを取るのもおもしろいし、脂がけっきょくのところはおいしいのやけど、わたしはカレー用て書いて売ってる塊のやつで作ってます。なんやろ、すねとか肩とか? そうすると、冷えてもラードの塊ほとんどできへんので、脂少ないんやなーと。挽肉でもできますって書いてるから一回挽肉でも作ったけど、すごい脂の層できて、しかも挽肉と混ざり合うから取り除くのも難しいかって、脂気にしない人は全然いいのですが、少なくしたい人はある程度塊のほうがいいです。(写真のファイヤーキングのマグカップは特に意味はないです)
緊急事態宣言が出て当分休業となっていた書店が、休業要請の業種に入らなくて時間を短縮して営業することになったり、そのまま休業になったり、あるいは、古書店は広さによって違ったり、混乱しているというか、政府や都の対応が曖昧だったりころころ変わったりして翻弄されているような感じで、他の業種も含めてどれだけ大変な状態やろうと想像するだけでつらくなる。それが、きっちりと感染症対策で論理的に決められていればまだいいけれど、見ている限りでは業界と政治家とのつながりとか政府と自治体の力関係とか、別の理由で、不透明に決定されてるようように思え、結局は、営業するにしてもなにかあったら開けた責任、休業して経営が厳しくなっても要請だから自己責任みたいになるのはほんとうにやりきれない。そんな中で、働いている人がいて、今後のことを心配しながら休んでる人がいて……。夜になってちょっと外へ出ると、平日はやはり人がとても少ない。休業の張り紙が、日曜よりもだいぶ増えていた。
(4月14日のぶん)
夜中から降り始めた雨がかなり強く、昼になっても薄暗い。昨日は地震の心配をしたけど、豪雨で避難しなければならない地域も出ているらしい。これだけ人との距離を取らないといけない状況で、どうやって避難するのか、難しいことばかり。
雨の勢いはまったくおさまらず、夕方に来てくれはった宅配便の人も大変そう。送らなあかんものがあって頼んだけれど、今の事態になる前から天候が悪いときとか年末とかは申し訳なくて、今はなおさらで、なるべくまとめるとか、必要なもの以外は買わないとかしてる。それでも、ほんまに大変な仕事で、これからますます通販・宅配増えそうやし、なんとかなれへんかなって思ってしまう。
ツイッターで、今起きてることのもろもろについて批判的なことを書いたりリツイートしたりしてる。全部ではないけれども、基本的には仕事・労働に関することがほとんど。ウイルスや病気への対処はなにが正解なのか専門的でわからないことも多いからとにかく外に出ないとか離れるとか手を洗うとかそういうことだけにしてて、ほかは学校の休校にしてもそれに伴って働いている親はどうしたらいいのかとか対応しなければならない学童保育の状況についてなどで、その後の「自粛を要請」という間違ってはないらしいけれどやっぱりどことなくねじれてる言葉で求められることに対して、生活していくためのお金をどうするのかとか、それでも出勤せなあかん仕事の人の状況についてとか、そういうことは伝えたほうがいいように思ってる。わたし自身も、他の人の仕事や生活のことって話を聞いてはじめてわかることも多いし。とにかく、社会全体のこと、今後のことを考えたら、厳しい状況にある人を支援したほうが絶対にいいのだけれど、なぜそれが通じないのだろう、というのは、今回のことがあるまえからずっとそうなんやけど。ロスジェネとか勝手に呼ばれてきた世代やし、もっと伝えていかな、と思う。批判って、よい社会を作っていくためのものやから。
昨日作った杏仁豆腐の写真、器はファイアーキングです。昔から好きで、でもヴィンテージのはめっちゃ高いから2つしか買ったことなかってんけど、数年前から日本の会社で作ってて、それから少しずつ買ってます。ちょっと高いけど、頑丈です。会社員時代、それはファイヤーキングじゃなくて他のメーカーのミルクガラスのやけど、会議室でお弁当な時間に6人分のお茶を入れて運んでたらお盆を落とし、他の人のマグカップを全部割ったのに自分のだけが無事だった、という経験があります・・・・・・。
「陳建一 杏仁豆腐」は、低脂肪乳(50%)で作っても、ぜんぜんだいじょうぶでした。おいしい。300ml消費しました。
この日記じゃないけど日記、ちょっと思うところあって、もしかしたら今後は3、4日に一回まとめてアップする形にするかもです。でもいちおう、書くのは毎日書くつもりです。
未明に地震があった。はっきりと最初の縦揺れとその後の横揺れのあいだに差があって、かなり揺れた。少なくとも、去年の6月に今の部屋に引っ越してからいちばん大きな地震だった(家にいないときにこれくらいのが一回あったかもしれない)。部屋は、ほぼすべての壁が本棚で埋まっていて、落ちてくると困るので、本がないのは押し入れの戸のところだけで、そこへソファ(ヨギボー)を移動させた。そのほうが部屋はなんとなくすっきりした。去年、台風が来たときにも今地震が同時に起こることだってあると思ったが、この状況下でも当然地震は起こり、大きな被害のある地震かもしれず、そうすると避難所で今言われているような感染対策なんてできないだろうし、その上、今までにあったような外国からの救助や援助に期待することも難しい。昨日の日記で引用した『ペスト』の悪夢から悪夢へという言葉が何度も浮かぶ。このあいだ友達が、朝起きた瞬間はコロナのこと忘れてて、でも次の瞬間に思い出して、もう前には戻られへんのやなって思うねん、と言っていて、そうやな、と思う。
それでやっと明け方に寝て起きて、ツイッターを見るとうんざりするような動画が、いろんな人が激怒のコメントと共に引用リツイートするので、スクロールしてもずらっと並んでいて、こんな状態は初めてかもしれへん。毎日毎日、こんなにも心を削られるというか、今、しんどい状況にある人たちがなんとかがんばっていこうとしているのを思い切り破壊するようなことばかりが次々に政府から投下され、リスクに直面しながら働いていたり店を閉めなければならかったり生活していくお金がなかったりする今の状況に、なにが必要なのかまったく届いていないのか、知っていて切り捨てたいのか。めげそうになるけれども、声を上げないとあかんし、ほんまは去年の9月に初めて参加したデモ(消費税反対)みたいに、ツイッターで見てる範囲以外のところに見えるように行動したいのに、集まれないのはほんとうにつらい。
ここ数日、懸案というか、かなりプレッシャーを感じていた仕事が、いい方向にいきそうなことがわかり、夕方になってやっと気持ちが持ち直す。日が暮れ始めて人も少なくなったやろうかと商店街まで歩いていくと、ほんとうにごく普通の週末の光景で、すごく多くもないけどそれなりに賑かに人は歩いており、店内の営業ができなくなってテイクアウトを始めたところをいくつか見てみると早々に売り切れたりしていて、部屋の中で見ているインターネットやニュースの深刻さと、普通に楽しい日曜日な雰囲気と、でも自粛という名目で閉店を余儀なくされている店はそここにあり、現実をうまく受け止められない感覚になる。
今日は、牛乳消費計画その3で杏仁豆腐を作った。「陳建一 杏仁豆腐」。粉を熱湯で溶かしてから牛乳を加える。低脂肪乳でやってみて、心配したが無事に固まった。出来はまた明日。
昼ごはんは、混ぜるだけのパスタソース的なやつでそうめんを食べたら全然だめやって、本来パスタに使うものをそうめんが大量にあるから(理由はまた今度)といってそうめんに使うわたしにも問題があるが、それで昨日書いた「麻辣ペッパー」で乗り切った。
わたしはコンビニの食べものとか加工食品、冷凍食品の類をわりに食べるほうで、こういう食べものはあまりよいようには言われないけど、利点の一つは成分表示があることで、カロリー、たんぱく質、脂質、炭水化物、塩分はたいてい書いてある。今までは通勤してたのに在宅で仕事とか出歩く機会が減った人も多いと思うし、家にいるとつい飲み食いしてしまうし、さらに自粛で余った食材を食べて応援(牛乳消費計画もその一環)とか、営業自粛の居酒屋さんのテイクアウトを買って応援とか、なにかと食べてると、どうしても太るというか、最近は太るのも資質のうちというか、太る前に内臓やら血管とかが悪くなっていくほうが難題やなと思ったりして、どちらにしても、カロリーというか、脂質と塩分は把握しといたほうがいいと思う。糖質減らすのが流行ってるけども、脂質はちょっとおいしそうな感じのもの食べたらあっという間に増えるし、塩分は日本の食事はびっくりするほど取り過ぎやしね。コンビニで売ってるものはだいたいなんでも成分表示あるし、確認しながら食べてるとだいたいこういう食べものはこのぐらいやなってわかってくるし。
なんの話やったっけ。これから気圧が急降下して、明日は嵐っぽい。春やからしゃあないけどこのひと月ぐらい気圧乱高下なのもしんどい理由やな、そういう人多いんちゃうかなと思う。わたしは「頭痛―る」っていう気圧の予測を見れるアプリで確認して、気圧乱高下のときは、しんどいのも仕事進まへんのも気圧やからしゃあないな、と思うことにしてる。
東京は、風が強い。地震来んといてほしい。
昨日、明日から閉まる店が増えるからさびしくなるやろうなと書いたけど、天気がいいし、ちょっと歩いてこようかとか思ってたら、遠くに出かけないからかえって近所の商店街がすごい人出やという情報を得て、出ないことにする。ほとんどの人がマスクをするようになり、飲食店もがらがらやったりするけども、たとえば外国のニュース画像で見るようなスーパーに入る人数が制限されてるとか床に線が引いてあって間をあけて並ぶとかはほぼ見たことがない。家にいる家族が多くて食べものやらなんやら買い出しにも行かなあかんやろうし、ごった返してる様子は心配になる。おととい、アメリカやカナダに住んでる知人はどうしてるか人づてに聞いたら、家に閉じこもってて配達されたものも72時間は家の中に入れないとか、日本とはかなり警戒感が違う様子。アメリカやイギリスに住んでる人には、今度会えるのはいつになるやろうかと思ったりする。
ところで、日記は相変わらず書けなくて、そういえば前に「よう知らんけど日記」を出したときに、毎日遊んでばっかりで作家って楽な商売なんですね、みたいな感想がありまして、日記形式の小ネタエッセイやて本の中に何回も書いてるやん、そやし全部の日付けないやん、1か月のうち10日分くらいしか書いてへんやん、と思って、そもそも、人に見せへんほんまの日記でも自分の一日の行動全部書くわけちゃうと思うねん。何時間仕事して、何時間テレビ見て、なに食べて、とか、そういう人もおると思うけど。日記、なに書くもんなんやろね、日記。それでわたしは、自分の行動も自分の身の回りの人のことも書きたくない性質なようなので、ここに書いていることも、ちょっと変えたりとかしています。書いてなくても仕事やほかのことをしています。ここにわたしはいません。
今日の写真は、「桃屋 さあさあ生七味とうがらし 山椒はピリリ結構なお味」です。生七味、と思ってて正式名称は長いから公式サイトからコピペしました。食べるラー油が大ヒットした桃屋ですが、その後に出たこちらがわたしには大ヒット。あんまり辛くなくて、唐辛子より山椒の味のほうがメイン。みそ汁とか鍋とか豆腐とか、和なものでも洋なものでもだいたいなんでも合う。あ、合うっていうても、わたしは食べものにこだわりがなく、外に食べに行っても「知らないもの→食べたことないもの→珍しいもの」の順に頼むチャレンジャータイプで、酢豚にパイナップルは許せないとかそういうのもまったくなく、繊細な味の違いはわからない人間なので、それを差し引いて読んでください。ここ数年、食べものにはとりあえずこれをかけといたらなんでもそれなりにおいしなるのがこの生七味と、カルディとかで売ってる「麻辣ペッパー」と、小豆島の「オリーブ香草塩」で、1コずつ紹介します。自分でごはん作ったけど今ひとつとか、コンビニとかスーパーで買うてきた食べものが今ひとつ、というときに、どれかかけといたらいけます、それなりの味になります。人それぞれ好みがあるから、自分にとっての「これかけといたらそれなりにいける」を常備しとくと、料理うまくできんかったとか、コンビニで買うた新商品はずれやったみたいなときに、かなしみを減らせます。日々の小さなかなしみを減らすことはだいじです。
午後にEテレで「100分de名著」の「ペスト」の回を一挙再放送してて、観た。本放送があったのは2018年6月で2年も経ってないのやけど、スタジオでは、ペストの状況が、もしこんな事態になったら、とか、たとえばこういう場合とも共通してて、というような、仮の、想像することとして話し合われていて、わたしも当時観たときはそんな感じで思っていたやろうし、誰のコメントも鋭いものではあるけれども、今は、小説の中の言葉があまりにリアルというかそのまますぎて、このときとは違う世界になってしまったのやなと、思わずにはいられなかった。
今日は、カミュの言葉を借ります。
「天災というものは人間の尺度とは一致しない、したがって天災は非現実的なもの、やがて過ぎ去る悪夢だと考えられる。ところが、天災は必ずしも過ぎ去らないし、悪夢から悪夢へ、人間のほうが過ぎ去っていくことになり、それも人間中心主義者(ヒューマニスト)たちがまず第一にということになるのは、彼らは自分で用心というものをしなかったからである。わが市民たちも人並以上に不心得だったわけではなく、謙譲な心構えを忘れていたというだけのことであって、自分たちにとっては、すべてはまだ可能であると考えていたわけであるが、それはつまり天災は起こりえないと見なすことであった。彼らは取り引きを行うことを続け、旅行の準備をしたり、意見をいだいたりしていた。ペストという、未来も、移動も、議論も封じてしまうものなど、どうして考えられたであろうか。彼らは自ら自由であると信じていたし、しかも、天災というものがあるかぎり、何びとも決して自由ではありえないのである。」
アルベール・カミュ「ペスト」(宮崎嶺雄訳 新潮文庫 56ページ)
お昼にプリンの最後の1個を食べた。甘いものはそんなに食べれない。
お酒が好きな人で、つまみは塩でいいとか、好きな食べものは油と塩とか、言ってた人を複数知ってるけど、わたしも塩系が好みです。甘いものは、きらいではないというか、一口食べる分には好きやけども、渋いお茶がないと食べれません。渋いとか苦いとかも好きです。お茶は出過ぎて渋いぐらいがちょうどいいです。
というわけで、牛乳消費計画は毎日できないし、調味料も今写真に撮れるものがないので、今日は掃除道具。「よう知らんけど日記」で便利な掃除片付け道具を書いたところ、作家の友人複数からたいへん役立ったと言われ、もっとどんどん紹介しようと思っています。
まずは「サッサ」。昔から売ってるこれ、今検索したら、1970年に発売。50周年じゃないですか! 記念イベントとかやってへんのかな? 子どもの時から見かけてて、確か「化学ぞうきん」とか書いてあって、謎やったけど使ったことがなかった。
それが、去年、住んでた部屋でトラブル事があり、部屋の中を大掃除しなあかんことになって、いろいろ買ってきたところこの「サッサ」が!すごい威力!! ほこりめっちゃ取れるし、砂埃みたいな細かいやつもめっちゃ取れるし、しかもさっと拭いただけでしっかりキャッチして落ちへんし(パッケージにも「ホコリをとらえてはなさない」て書いてある)、ぺらっとした紙みたいなもんやのに、両面ですごい使える。薄いシートやから、細かいところも拭きやすい。昔から売ってるだけあって安いし。こんな便利な役立つものを今まで使ってなかったとは……。
そして、金鳥なんです。正式名称、大日本除虫菊株式会社。除虫菊とは蚊取り線香のことやね。金鳥はトレードマークのニワトリのこと。「金鳥の夏、日本の夏」ですよ。ハエハエカカカ、キンチョール。金鳥の本社は大阪市西区土佐堀。国立国際美術館のすぐ近く、YMCAの隣の隣。「サッサ」も、大発明やってんやなあ。
一回使ってみてください、「サッサ」。
ところでこの日記のタイトルは、「ていねいに暮らす」以外のやつ、と思ってつけました。ていねいに暮らすの好きな人もいるし、ていねいに暮らせたらいいと思うし、でも、そうじゃなくても全然いいやん、どっちがいいとかとちゃうやん、と日頃思っておりまして。わたしは、身の回りのこと大変苦手な性質なのやけど、子供のころから家事の即戦力やったからいちおう一通りできるけど、それは常に「怒られるからやらなあかん」という気持ちとセットで、そんなに楽しいものでもなかったし、だからずっと便利な道具とかグッズとかとにかく手間を少なく速くできることが第一で、でもそのことに対してやっぱりずっとどこかで「ちゃんとできてない自分はあかん」ていう引け目みたいなものがうっすら張りついていて、この何年か特に、なんでなんとか毎日を乗り切ってるのに(ちょいちょい乗り切ってなくても)「ちゃんとしてない」ておもわなあかんのやろう、これなんなん? と思うようになった。経緯は違っても、そういう「ちゃんとしなければ」「きちんとできてない自分はだめ」みたいな思いを抱えてる人いっぱいいるやん、ていうのもわかってきたし。
ほんで、日々の暮らしでなるべく楽することを一回まとめて書きたいなと思ってて、今、いつもとは生活環境が変わって、家におらなあかんとか、ごはん作らなあかんとか、もうちょいポジティブに家の掃除でもしよかなとか、牛乳消費してみよかな、とか思ってはる人もきっといると推測して、なにかとしんどいここしばらくの中で、「きっちりできへんかったから自分はだめ」みたいな気持ちをなるべく減らしたい、というか、そんなんいらんようになったらええなと思って、書いてみようと思ったのでした。写真も載せれるし。サッサの横に置いてる多肉植物もフェイクグリーンです。
だから、日記ではないねんけど、ほんで昨日人生で初めて4日連続で日記書いたと思ったのに(その日に日記を書いたことがなかった。前にイベントで他の作家さんも小学校の夏休みの日記は嘘ばっかり書いてたと言ってた)、今日は書くんやめよかなと思って、早っ!て自分でも思うけど、ちょっと書きたくなくなるようなことがあった。でも、書いた。書いてて、仕事の原稿書けよ、って各方面に申し訳なくて、なにやってんねんやろ、って思うけど、なんでなんかは書きながら考えよう。
天気よかったので外に出た。商店街の飲食店はすでに長期休業のところ、明日から長期休業になるところ、テイクアウトをやっているところ、が3分の1ずつぐらいやった。明日からはいっそうさびしくなるやろな。歩いてる人は、マスク着用が9割ぐらいになってた。スーパーもドラッグストアも、開店時の販売をやめたので紙類や除菌系のものもやっと見かけるようになった。マスクは、まだ幻の存在やけど。どこのスーパーもパスタの棚が空っぽで、そないにパスタって食べるもんなんかな、と思う。いつから「パスタ」って言い方ふつうになったっけ、と思う。休業の自粛なんか要請なんかよくわからん状況がますますよくわからんようになっていて、補償もあるんかないんかやりたくないんかやりたくないんやな。2016年にアイオワ大学のプログラムに参加してたときに、ニューオーリンズの高校の授業で生徒たちといっしょにディスカッションする時間があって、その日のテーマは「公共とプライバシー」で、自分は高校のときにそんなことを話し合ったことはなかって、「公共」ってことを考える毎日です、わたしにとって今の日々は。ニューオーリンズは、2005年のハリケーン・カトリーナによって水没、救助や支援が遅れて放置状態になり、甚大な被害があった。2016年になっても、そのときのまま廃墟になった家がたくさんあった。
ほんとうの意味での日記を書くのはやっぱり好きではない。自分の身の回りことは書きたくない。
ここに書いてるのは、報告、が近いかも知れない。
朝から昨日作ったプリンを食べました。昨日は1時間冷やしただけですぐ食べたけど、一晩冷蔵庫に入れとくともうちょい固まってプリン感が増しておいしかった。
プリンエルの利点は、ほぼ牛乳ていうとこやなと思う。卵不使用やし、成分表示見ても脂肪分はほとんどが入れた牛乳。フルーチェは「生乳のみ、加工乳・乳製品は不可」なんやけど、プリンエルにはそれは書いてないから、低脂肪乳でもいけるんかな。そしたら市販のプリンより脂肪少ないのが作れてよい。次回試してみよう。低脂肪乳は、「明治 おいしい牛乳」シリーズの「明治 おいしい低脂肪乳」がいちおしです。牛乳とあんまり変わらん感じ。
書き続けられるかわからへんかったので、3日分書いてから昨日の夜公開というか告知してみて、読んでくださった方ありがとうございます。
それで1で書いた日記の書き方わからん話、自分のマイナス面に直面するのがいやなのか?とこのところは思っておりましたが、自分の行動を記録すること自体があんまり好きでないのでは、と思った。「よう知らんけど日記」https://www.lmaga.jp/youshiran/ をこないだ読み返したときに、あー、あったなあこういうこと、しょうもないことでも書いとくもんやな、思ったから確かに記録しとくのはいいのはわかるけど、今日のことを今日記録したくない。理由はわからないけど。わたしが知らないうちに勝手に記録されてたらいいのに、と思う。ライフログ的なアプリとかでできるんやろか、今どきは。
それから、周りの人のことを書くのが苦手、というのもある。たとえ人に見せないと思ってても。このへんはまたおいおい考えよう。
今日は一大イベントがあった。お花見会、オンライン版。
2011年に、人が減って薄暗かった東京で、西加奈子さんが声をかけてくれて西さんちで作家が集まって飲み会をして、以来毎年恒例行事になって、ずっと楽しみにしてた。今年は西さんが外国にいるので、うちで開催すると引き継いでて、もともと震災の後に始めた会やしこんなときこそって思ってたけどどうにもならず、オンライン開催となりました。
先週から、2回お試し版をやってみて、今話題の!Zoomでやることに。お昼から6時間、延べ20人が参加。実際にその場にいるのとは違って、全員で1つの話題になるとか難しいとこもあるけど、思ったよりスムーズで楽しかった。遠隔地の人も参加できるし。人とどうでもいい話するのだいじ、聞いてるだけでもちゃうな、と思いました。ここのとこ、人と話す機会が極端に少ないから、しゃべるの下手になってる気がするし。
それで、今朝気がついたことがあって。
ヘッダー画像にしてる桜の写真。おととい、4月7日、初めて記事をアップするときに設定した。とりあえずでいいか、と思って、画像フォルダを開き、横長やからパノラマ写真にしょうか(デジタルカメラのパノラマ写真を10年ほど撮っています)、と思い、ニューヨークの写真がお気に入りやけど今ニューヨークいう気分ちゃうやんな……、と目についたフォルダを開いたら桜で、あ、今年は桜もゆっくり見られへんかったし、ちょうどええわ、ということで特に深く考えたわけでなく、この画像にした。
場所は砧公園で、桜は枝が横に長く伸びてるのが他にない感じで、公園も広大で、何回か桜の季節に行ったけど、すごくいいところ。それで、いつ撮ったんやろ、と今朝になって日付けを確かめた。
「2011.04.07」
写真をアップした2020年4月7日のちょうど9年前の同じ日。しかも、2011年。3月11日からひと月も経っていない東京は、こんなに穏やかにお花見の光景があった。
もしかして画像を保存するときになにか間違えたのかも、と思ったけど、そのすぐ前の画像は3月22日に文藝春秋の会議室を借りて当時作っていた同人誌の原稿を長嶋有さん、福永信さん、中原昌也さん、名久井直子さんと集まって書いたときのもので、その日の記憶はとても鮮明にあり、この桜の写真はやっぱり2011年4月7日なのやなと思った。
記録しておくことは、重要やな。
今日は、「プリンエル」でプリンを作りました。フルーチェは牛乳150mlだったので、あんまり減らへんなあと思いましたが、「プリンエル」は400ml使うので牛乳消費には向いてます。牛乳を鍋で沸かさなあかんので、吹きこぼれる危険、そして鍋を洗う手間が、混ぜるだけのフルーチェよりもあります。こんな簡単に作れるはずのものでも、と思う方もいらっしゃるかもですが、吹きこぼれてコンロ掃除せなあかんのも、牛乳の膜が張った鍋洗うのも、面倒というか、気持ち的にだめなときだったりするとだいぶダメージになります。洗うのはしゃあないとして、吹きこぼれないように気をつけましょう。
冷蔵庫で冷やすのは1時間。これもフルーチェの30分の倍なので、待つのがきらいな人はまずフルーチェからをおすすめします。そしてここでカラメルソースの登場。プリンの素も粉ですが、カラメルも粉です。そしてわたしは水を大さじ1入れて溶かすカラメル粉の粉がちょっと溶け残ってじゃりじゃり感があるほうが好きです。
できあがったプリン。記憶にあるのより、だいぶあっさり味で、食感もゆるめ。モロゾフとかのオーソドックスなプリンよりも、牛乳寄り。モロゾフを例に出したのは、プリンはモロゾフだからです。あのごついガラスの器に入ったプリン。あれがわたしにとってのプリンです。どこのどんなプリンを食べようとも、真ん中はモロゾフのプリンです。もちろん、子供のころの家のコップは全部モロゾフのプリンの器でした。だからプリンだけでなく、コップの真ん中もモロゾフです。
プリンエルのプリンは、あっさりゆるめなので(冷やしとくともっと固まるのかも)、ボウルやどんぶりにたっぷり作ってれんげや特大スプーンで食べるという、やってみたかった場面を実現することもできるかも。
それで、フルーチェ作ったときもそうでしたが、食べものは写真撮るの難しいな! ガラスの器ってちょっと汚れたり曇ったりしててもめっちゃ目立つし、中身を入れるときに縁についたのを取るのも難しいし、取った跡も残る。背景もきれいに片付けなあかんし(それは部屋に片づいてる部分が非常に少ない個人的な問題でもあるが)、おいしそうに見える色味になかなか写らへん。自然光がいちばん簡単にきれいに見えて、太陽すごいなって思う。食べもの写真を撮ってる人、尊敬します。そして、インスタ映えなんて安易に言うけど、Instagramでええ感じの写真撮るの、とても難しいと思う。みんな難しいことやってはるのやな。
プリンのグラスは、純喫茶コラボで新世界のドレミのです。ドレミ、行きたいなあ。
今日もずっと家にいた。昨日の緊急事態宣言のあと、書店も映画館も多くが休業することを知って、あまりにダメージが大きくて、ツイッターやインターネットを夜中も延々と見ていた。自分の仕事と直接関係あるというのも大きいけれど、仕事でなくても生活の一部としてあまりになじみすぎていて、ドイツや外国にいる人の情報でロックダウンでも書店は開いてるというのをいくつか見ていたから、どこかで書店は開けてくれてると思い込んでたのかもしれない。同時に、書店員さんも不安な中で通勤したり接客したりされてたのやなと思うと、負担をかけていたことの申し訳なさと、休業のあいだの書店のみなさんの厳しい状況と、そしてこのあとも営業を続けるお店の大変さと、あるいはオンライン書店の宅配にだってやっぱりリスクに直面しながら出勤して働いている人がたくさんいることと、そして当然出版関連以外の途方もないたくさんの仕事のことと……、外にあまり出ない生活がひと月半ぐらいになるけど、今までない混乱した気持ちになってしまった。
お昼くらいになってようやく、この数日とくに、自分がすごく見える範囲が狭くなってた、家にいると情報ばっかりどんどん入ってきてようさん知ってるようでやっぱり見えへんようになってる、と思って、自分の生活をまず落ち着けなければ、と、我に返った感じになりました。
この「日記」もそう思って書き始めたのになあ。すぐ、不安にとらわれてしまう、というか、とらわれていると思いたくなくて余計に狭いところにはまりこんでしまうのかもしれない。
エッセイを1つ書いて送り、修正を送りますと言っていたのに三日遅れていたのを送り、プリンを作って、これを書いています。これを書くことがいいのか、わからないまま。
ながらくのてきとうな暮らしの中で助けてもらってるあれこれを、牛乳消費おやつ以外にもちょっとずつ書いていこうと思ってて、でも今、いちおしの「一風堂 ホットもやしソース」が半分使ってる中途半端な状態かつラベルがラー油色になってしまっており、新しいのを買ってきていい感じに見える写真を撮るためには、もやしをあと7袋くらい食べなあかんなー。
昨日、「フルーチェ 贅沢マンゴー」を作って、思ったより少なかったと書いた。牛乳150ml、レトルトパウチのフルーチェの素が150g。mlとgやけど、合わせたらだいたい300mlで、コップに1杯半。大人になったから少なく感じるんやな、と思って、昨日のページの写真にあげたちいちゃいグラスに入れたのを食べて、すぐなくなりそうやなあ、と思った。
今日のお昼に、混ぜたガラスのボウルのまま冷蔵庫に入れてた残りを食べようと思ったら、めっちゃあるやん、となった。食べきれへん……。子どもが二、三人いると一瞬でなくなるのだろうけど、一人には、こんなにできるんか、という量になる。
家でお菓子類を作る利点の一つは、ボウルや鍋にいっぱいの特大プリンとかが可能なことで、それを大きなスプーンですくってわしわし食べるみたいなことができる。ときどき、作ってみました!と画像を上げた記事を読んだりするけど、あれは途中でつらくなりそうやなあ、と毎回思うのは、わたしは甘いものがそんなにたくさん食べられないからだ。
フルーチェも作ったのはたぶん30年ぶりくらいで、牛乳消費計画としては明日は「プリンエル」!とはりきってたのやけど、毎日は無理ですね……。
昨日の夜、買ってきたインスタントおやつパッケージの画像をツイッターに上げて、買ってきた中にはないのやけど「クールン」というレアチーズケーキを子供のころによく作ってたと書いたら、思ったよりも反応してくれる人がいてうれしかった。クールンはもうないかもと思って検索したらまだ売ってるようやったし(でも確か昔はいちご味とかあったと思うけど1種類になってた)、フルーチェもプリンエルも、シャービックもゼリエースもスーパーの売り場にずっと並んでるので、根強く作ってる人がいるのやなあ、と安心する。フルーチェは種類増えてるし。
根強く作ってて、昨日のツイートに反応あったみたいに子供のころの思い出になってる人もようさんいるはずなのやけど、わたしの観測範囲ではあんまり語られない。子供のころの思い出としてエッセイに登場するのはときどきありそうに思うけど、今作ってる、今日食べた、というのは見かけないように思う。おやつを作った、と書くなら、やはり手作りで、素朴な材料から、となるのだと思う。ホケミ(っていつから呼ぶようになったのやろう)はえらい活躍してるけど。
「Cook Do!」やめんつゆを使った料理がおもに家事をしない人から揶揄される現象は、一時ほどではなくなったけど、今も見かけて、わたしの情報はだいたいSNSとウェブ上の記事なので、現実世界でどのくらいあるのかわからないけど、おやつも「混ぜたらできる!」なのはどこか、ほんものでないというか、近年の流行り言葉で言うならジェネリックな行為としてとらえられがちなではあって、「手作りしました!」と書きにくい感覚はどこかであるのだと思う。
ところでわたしの育った家は、両親がフルタイムで働いており、わたしは小学校の低学年から即戦力として家事をやっていた。小学校の四、五年からは毎日ではないが家族の食事も作っていて、中学の夏休みなどは昼、夕と作ることも多かった。それは義務というか、やらないと食べられないし、家族の生活が立ちゆかないからやっていたので、結果、自分にとって調理は、簡単で速いことが重要だった。一つの鍋に順番に入れていけばいいものしか作らないし、なにごとも雑でてきとうなので、分量や時間をきっちり計ることも不得手である。そうすると、スーパーマーケットに並んでいる、「混ぜるだけ!」「簡単!」「これ一つでできる!」あれこれは、作ってくれた人ありがとう、これを日夜研究開発してくれている人がいるの素晴らしい、新商品楽しみ、で、棚の前にいると幸せを感じる。スーパーやコンビニで商品を見てるのがとにかく好きで、コンビニに行くたび15分くらいいて、そんなに長居してるの自分だけやなあ、と思う。
それで、実はこのnoteは、そういう、わたしが日々感謝しているもの、毎日の生活を豊かにしてくれているものたちのことを書こうと思ったのです。てきとうに、暮らしたい。
さっき、緊急事態宣言が出た、で動詞は合ってるのかな。発令された? 緊急事態が宣言された?
詳細は、これからじっくり確かめようと思います。数年前までなら、こんなときわたしはテレビを見て、全局チャンネルを変えながら何度も同じニュースを見ていたのだと思うけど、4年ほど前からほぼテレビをつけることもなくなった。子供のころから、毎日10時間近くテレビを見続けてきたのに見なくなった理由は、「よう知らんけど日記」にこのあいだちょっと書いて、またここでも少しずつ書くかもしれないけど、とにかく、今は、とても静かです。テレビのついてない部屋で、どこかの家の水が流れる音だけが聞こえます。
こんにちは。
日記書いといたほうがいいよ、今こそ日記やで、といろんな人が言っていて、そうやろうなあと思うし、自分も人の日記を読んでいるけれど、どうにも日記が苦手で書くことができず、あんまり出歩かない生活もひと月をこえてしまったし、なにか書いとこうかなと思って書いている。
日記が書けないのは子供のころからで、夏休みの宿題も最後の3日ぐらいで適当なことをまとめて書いてて、という話は今までにもあちこちで書いたり話したりして、その理由はずっと自分が根気がないというか、継続が不得手で、勉強にしろ運動やら習い事にしろ、とにかく練習する、日々の積み重ねがたいせつなものはなにひとつできないからだと思っていて、それはその通りなのだが、日記に関して言えば、日記という形式じたいがどうにも難しいようだ、わたしにとっては、とようやくあきらめがついてきた。
誰にも見せるあてなく、自分で自分だけのために書くことが難しい?
それとも、自分の自身のことを書くのが難しい?
というのは、前から思っていたのだが、いやなことをノートに書き出してみる、とか、思ってることを書き出してみて自分の考え方の癖を知る、とか、そういうのも非常に難しい。
書こうとすると、手が拒否する。
それで、これも日記ではないし、ウェブ上の日記というものは書いている人は誰かに読んでもらおうと思って書いているのか、誰も読まなくても、あるは誰にも読んでほしくなくて書いてるのか、わからないし、いろんな人がいると思う。
わたしは日記の書き方がどうしてもわからず、なにか書いてみようと思って書いてみてて、なんなのかはわからない。
そして毎日書くとか、定期的に書くのも、たぶんできない。
「よう知らんけど日記」という連載をやっていて、それも日記形式やけど日記ではない。その上、何回も連載を中断、それも長期にわたって休んだりして、続けさせてもらってる京阪神エルマガジン社さま、1回目からお世話になっている担当さん、ありがとうございます。
日記でもないし、なにかわからないし、こんなん書いてる暇あるんやったらあの原稿とかこの原稿とか早く書いてください、と思われそうで、その通りなのですが、こういうときなのでなにか、と思った、その結果の文字列です。
それで今日は、フルーチェを作りました。
二月の終わりに学校が休みになって牛乳があまるから蘇を作ろうと話題になっていて、たぶんわたしにはできなそうだから作らなかった。先週、友人が牛乳寒天を作ろうとして失敗し、フルーチェやったら簡単、って言うて検索したら、昔(30年くらい前)から予想通り進化してマンゴーとかブルーベリーとかあって、スーパーに行って製菓材料の棚に行って、「フルーチェ 贅沢マンゴー」とプリンエルとクレームブリュレ作るやつと杏仁豆腐作るやつと、全部牛乳混ぜるだけでできるのを買ってきた。そして四つの作り方を読んで、期した通りに混ぜるだけでいちばん簡単なフルーチェを作った。
「贅沢」のほうだからなのか、思ったより少ない。牛乳は150ml。1秒に2回のペースで混ぜると書いてあって、子供のころはもっとたくさんできたような記憶やけどな、そしてこれは混ぜ終わりがどの感じかわからへんな、と思いながら切り上げて、冷蔵庫に入れて、30分経って食べてみた。「贅沢」なので、知ってるフルーチェより高級な味がした。マンゴープリンみたいでした。
明日から緊急事態になるらしい。(4月6日)