エッセイ

短編小説『宇宙の日』 

 五月五日は宇宙の日。
 だんだんと強く、速くなるドラムの音が、わたしの足から頭へと突き抜けていって、その音によって前後に揺り動かされている頭を一瞬止めて目を開けると、深い青色の空が見えた。
 ここは空の下だ、と思った瞬間に、動き続けていた体はバランスを崩して、ふくらはぎがベンチに当たり、頭はそれ自身の重さでぐらんとうしろに倒れ、目が回ったときの感覚が頭蓋骨の中を占めた。あっ、また速くなった、と思うのと同時にエレクトリックバイオリンの音がひときわ高く響いて、おおーっと歓声というかうねりのような声が、すり鉢状の客席の全体から立ちのぼった。
 倒れずになんとかバランスを保った。反動をつけて体勢を前に戻し、まだ平衡感覚が狂っている心地よさを味わいながらステージを見た。光が四本、走っている。赤とピンクのしましまの光が、上へ上へと湧き出て止まらない。ステージには四本の細いパイプのようなものが、床から屋根へ貫通するように取り付けてあり、それが光っているのだった。
 同じステージでは何十分か前まで別のバンドが演奏していて、そのときは光の柱はなかった。あったのに光っていなかったから見えなかっただけなのか、あいだの時間に取り付けられたのか、わたしにはわからなかった。ROVOの演奏が始まったら四本の鮮やかな光が突然出現していて、魔法のようだった。
 雨が少し強くなり、わたしはウインドブレーカーのフードをかぶった。音楽はゆるまないで鳴り続け、なんの区切りもない空間へと広がっていった。
 宇宙の日の東京都千代田区は小雨が降ったり止んだりだった。日比谷野外音楽堂に入ったのは午後三時三十分ごろで、そのときは雨は止んでいたから、このまますっかり上がってくれることを、大勢の人が望んでいた。
 六時前にROVOが出てきたとき、わたしは直前の休憩時間に念のためにと思って売店に並んで買った五百円の雨合羽は開けないまま、折り畳んで持ってきたユニクロのウインドブレーカーを着て細かな雨粒をしのぐことにした。いっしょに来た友人と、さっき初めて会ったその友だちは、二人とも毎年フェスに行っているから慣れていてちゃんとした防水仕様で丈も長めのウインドブレーカーを着ていた。わたしのはナイロンでしかも子ども用だから短かった。でも、なんとかなるだろうと思っていた。今までだってたいていのことは、なんとかなってきた。どうにもならなかったことも、あるけど。
 それに今日は宇宙の日だから。
 バイオリンの音が流れていく。客席を走って、広い場所へと拡散していく。右側を見上げると、夏の始まりの、新緑が盛り上がった木々の向こうに大きな建物が見える。四角い建物に四角い窓が並ぶ、単調さのせいなのか、どこがどうってはっきり指摘できるわけではないものの、とにかく冴えないデザインのせいなのか、知らないけど絶対官公庁関係の建物だとわかる。五月五日という、黄金週間を象徴するような日。明日もまだもう一日休みがある日。そして夕方六時過ぎ。それなのに、いくつかの、だいたい建物の五分の一ぐらいの窓には明かりがついている。正面には、もっと背の高い、こちらはデザインが多少凝っているガラス張りの真新しいビルが二棟あり、どちらもやはり四角い升目のところどころが白い蛍光灯の光で埋められていた。
 四時前にここへ入って、自由席だから真ん中よりも少しうしろの右寄りに空いているところを見つけて座ってすぐに、右側に壁のようにある庁舎のビルを見上げて、あそこからならステージが見える、と思った。正面の二棟の高層ビルからは客席しか見えないけれど、庁舎のビルからは演奏している人たちがよく見えそうだった。日比谷野外音楽堂ではきっといろんな公演があるだろうから、それが見える位置にいられるなんて、羨ましくてずるいと思った。この距離なら、きっと音も聞こえるだろう。
 最初の二つのバンドが演奏しているあいだも、その休憩のあいだも、わたしは何度もそれらの三つのビルの光っている窓を見上げた。絶対に、こっちを覗く人影が窓に現れると思っていた。白い光の四角に、黒い人影がいくつも出現して、なんのイベントが始まったのだろうかと、見下ろすに違いない。そうしたら、わたしは、この会場の中にいる自分のことを自慢したいような気持ち、もっと言うと誇らしいような気持ちになろう、と思っていた。彼らに向かって、大きく手を振ってあげてもいいかもしれない。
 それなのに、何度見ても四角い光は欠けることなく四角く白く光っているだけだった。明かりのついたフロアが減る様子もなかった。窓を閉めていたって、というか、あのガラスは永遠に開かない窓なのだろうけれど、それでも少しくらいはここから昇っていった音が聞こえるはずなのに、気にならないなんて、確かめたいって思わないなんて、わたしには信じられなかった。もしかして、電気がついているだけで誰もいないのだろうか。だとしたら、とんでもない無駄遣いだ。
 わたしの膝にも踵にもばねがついたみたいになって、体を揺さぶり続ける。右足が前へ、左足がうしろへ、踏み込んで、その揺れは増幅して首と頭をなかみがぐらぐらするくらいに振る。動かそうと思っているのではなくて、勝手にそうなる。隣にいる友だちも、その隣にいる初めて会った友だちも、前の知らない人も、うしろの人も、何百人か千人ぐらいいるのかわからないけれど、ここにいる人たち全員がそうなっている。おおおーっ、と全体から声があがる。また音が速くなった。さっき速くなってから、遅くなったとは思わなかったのに、いつの間にかスピードが変わっていて、また速くなったことに、速くなり始めてから気づく。もしかしたら、速いとか遅いとかの感覚がわからなくなってしまっているのかもしれない。わたしの好きな音楽は、速くなったり遅くなったりして、落ちていくのと昇っていくのとを同時に感じているような、自分は上昇しているけれど周りの全体は落下していく仕組みのエレベーターに乗っているような、そういう感じがするから。
 すうっと静かになっていたところから、再びエレクトリックバイオリンの音がだんだんはっきりと聞こえてきて、そこに二台のドラムや水の泡みたいなキーボードの音が混ざり合って膨らんでいった。わたしの頭は左右に動いて、その音についていこうとする。この曲に、なんていうタイトルがついているのか、考えてみたことがないからわからなかった。演奏している人も、左でギターを弾いている人以外は、名前を知らなかった。だけど、これが紛れもなくわたしが今日ここにきて聞きたかった音楽だった。自分の体の中に、別の生き物が発生してくるみたいな、そういう興奮が次々と湧いてくる。バイオリンの音が途切れて、二台のドラムの振動が体に直接響いた。
 日比谷公園は、五月の新緑で溢れていた。どの木にも、やわらかい若い緑色の葉が吹き出してふさふさしていた。日比谷野外音楽堂の周りも木々が取り囲んでいた。湧き上がって上から上からのしかかってくるような、圧倒される茂りかたをした木々が、見渡す限りわたしたちを取り巻いていた。花のにおいがした。たぶんクスノキかスダジィの、その先についた薄緑色の穂から発生する、水っぽい強いにおいが充満していて、公園に着いたときから少しも篝まることはなかった。
 クスノキもシイもイチョウもケヤキも、日比谷公園の木はみんな大きかった。日比谷公園だけではなくて、東京ではどこでも木が大きい。大きいというのは、高さもあるし、幹も太くて立派だし、それから木を観察するようになってから気づいたのだけれど、葉が密生している。大阪だったら中の枝が見えるのに、たとえば東京のイチョウは枝も葉も大量についているから、巨大な葉の塊のように見える。日比谷公園には、首かけ銀杏という名前の付いた銀杏の巨木がある。公園を作った人が、自分の首を賭けても残してほしいと頼んだ木で、そうした人のことも、そして木がちゃんと残ったことも、感動的だった。樹齢四百年で松本楼の前にあるって、いつも見る地図帳で調べてきた。こんなことをたくさんの人が読むところに書くことができるなんて、わたしはなんていい職業を選んだんだろう。でも、野外音楽堂に入る前には見られなかったし、帰りは真っ暗だろうし、なによりきっとROVOの演奏でそれどころじゃなくなっているだろうから、また別の日に見に来ようと思う。こんなに大きい、すばらしい木がそこらじゅうに生えている街は、ほかにはないのだから。
 大勢のそれぞれの声なのか、それともなにか一つの塊の声なのか、もう区別がなくなった歓声が大きくあがって、ドラムの音が強く連続して音楽が止んだ。
 「すごいね」
 隣の友だちが言う。
 「うん」
 わたしが言う。それから、体をひねってベンチに置いていたペットボトルの水を飲んだ。さっきまで一つの同じ意思に沿って動いていた人たちが、急にゆるんでばらばらな動作を許された。わたしは自分の体に残っている振動の中を水が流れ落ちていくのを感じた。
水っぽいにおいの花をたくさんつけている緑の木の豊かな茂りのうえを、鮮やかな蛍光色の緑のレーザー光線が、何かの文字を描くようにごちゃごちゃと動ぎ回った。
 「見て」
 わたしが言った。
 「ほんと」
 しばらくわたしの指す先を探してから、友だちが言った。
 その緑の先端まで続く光の軌跡がはっきりと見えるほどに、いつのまにか空は暗くなっていた。雨は少し強くなり、かぶっているフードにばらばらと雨粒が当たる音がした。
 わたしのいる場所の左側にテントがあって、そこからレーザー光線もステージのうしろに投影される映像も出ていて、いくつかの機械の塊が配置されていた。その手前には外国人のグループがいて、最初のバンドの演奏が始まったときからその中の一人の金髪の外国人の男が日本人の女とずっと抱き合っていた。でも、しばらく演奏が続いてそこらあたりにいた人の配置が変わっていたし、その大部分が白い半透明の合羽を着込んでいて、ここからは彼らは見えなくなった。
 緑色のレーザー光線が、ぐちゃぐちゃしながらステージのほうへ動いて、音楽が始まった。わたしたちはまた音楽とともに動き始めた。音楽が速くなれば速くなったし、リズムが変則的になればわたしたちも変なリズムで揺れた。普段は絶対にこんなふうに動かすことがないやりかたで、頭を振る。すり鉢状に傾斜した客席の上のほうにいるから、ステージはよく見えた。光の柱は今は水色になって、上から下へ落ちていくように見える。水色はほとんど白に近いくらいに強く発光して、ステージを照らし、わたしのところまで届いて、そして空へ消えていく。
 わたしのところからステージはよく見えるけれど、音楽が始まると、わたしはステージを見ているのか見ていないのかわからなくなる。今こうして書いていると、ステージの光景が思い出されてくるから、見ていたのだろうと思うけれど、音楽が発せられているあいだはいつも、音と自分だけになる。音と戦うような、そんなふうになったのはいつからかわからないけど、特にライブハウスみたいな床が平らなところにいるときはわたしはとても背が低いからなんにも見えないので、見ることは早々にあきらめて、音と自分だけになるようにした。十年前に、コーナーショップを心斎橋クラブクワトロで見たとき、それにしても今日はステージにいる人の頭さえも全然見えないと思ったら、真ん中の人以外全員座ってインドの楽器を演奏していたことがあったけれど、あのときのライブもほんとうにすばらしくて、一生忘れないと思う。
 二台のドラムが人間が叩いているとは思えないような速くて複雑なリズムで打ち出され、響いてくる。バイオリンがひときわ高く鳴り渡って、ギターの音もキーボードの音も次々と耳に飛び込んで、わたしの体の中に入り込む。前、うしろ、前、うしろ、わたしの体は揺れ続ける。音だけがあって、ほかはなんにもなくなって、体の運動だけが感じられればいい。運動の、揺れている感覚だけがあって、体もないように思えたらいいのに、と思う。だけど、体はあって、頭の中がぐらぐらして、ときどきバランスを失って、隣の友だちにぶつかったり、前へ倒れて転がっていきそうになる。なんとか踏みとどまった瞬間に、でも頭のなかみはまだ揺れていて、周りが回転する錯覚に襲われる。その回転に重みを任せて頭を上に向けると、もう完全に夜になった空があった。雨なのに、雲の多い夜の都会の白く光ったような空ではなくて、暗い夜の空だった。
 たぶん、直接宇宙を見ているからだと、思った。きっと、ここにいるすべての人が、そう思っている。光が走ってくるように、次々に音楽が生まれ続けて飛んでくる。水色の発光する柱は消え、うしろの壁には三角形の立体が宇宙空間を回転して進んでいくように見える映像が映し出されていた。夜の空と、葉が湧き出ている木々と、ここにいる人たちを掬い取って掌に載せているような形をした野外音楽堂と、ステージにいる六人の人たちと、一つの生き物みたいな集団になってうごめき続ける大勢の観客たちが、全部いっしょになったところにいくつもの音が降りかかる。降りかかって、そのまま空へ広がっていく。ずっと、長いあいだ、空の下でROVOのライブが見たかった。
 ROVOは宇宙に行けるなあ。
 と、わたしは去年、「主題歌」という小説の中で書いた。前にROVOのライブに行ったとき、ほんとうにそう思ったから、そう書いた。そうしたら、保坂和志さんが「小説をめぐって」の連載の中で、「主題歌」について書いてくれて、その部分も取り上げられていた。そこに、ROVOはなにか宇宙っぽい、でっかい音楽をやろうと言って結成されたことが書いてあった。わたしは、それを読んで初めて、ROVOが宇宙っぽい音楽をやろうと言って結成されたことを知った。それまでは知らなかったけれど、ROVOのライブに行ったときに、ほんとうに宇宙に行けると思ったから、宇宙に行けるって書いた。だから、自分がちゃんと宇宙を受け取れていて、うれしかった。ROVOが宇宙っぽい音楽をやろうと言ってほんとうに宇宙っぽい音楽をやれていることも、自分がそれを感じられたことも、その全体としてROVOの音楽に宇宙が存在するっていうことが確かにあるって思えたことも、一つのこととして、心からうれしかった。
 それで今日は宇宙の日だった。
 「主題歌」を書いていたとき、四年前になんばHatchで初めて見たROVOのライブのことを絶対に書こうと思って、そのときに感じていたことをできるだけ忠実に書こうとして、そうしたのだけれど、最初の原稿ではROVOという名前は書いていなかった。名前を書くと、そこになにか意味が発生したり、知っている人と知らない人とのあいだで違いができたりするのが、よくないように思ったからだった。だけど、一度原稿を書き上げて、校正しているときにちょうど、Studio Coastであったボアダムスとソニック・ユースのライブに行った。ボアダムスは、三台のドラムをステージの中心へ向けて並べて、その真ん中にギターをたぶん八本ぐらい右向き左向きに順番に積み上げた柱みたいなものが立ててあって、そこによじ登って演奏していた。その音楽は、古代の、神に捧げる音楽みたいになっていて、死ぬほどかっこよかった。だから、やっぱりあのライブはROVOだと書こうと思った。すばらしい音楽は、一人でも多く、できるだけたくさんの人が聞いたほうが絶対にいいのだから。
 あのときドラム三台が中心を向いていたステージを左の方から見ていて、天井の機材にボアダムスの人たちの姿が映っているのを見ていた。その角度でずっと見ていたはずなのに、なぜかわたしの頭の中にはそのドラムの周りをぐるぐる回転するカメラで撮った映像が浮かぶ。あとからそういう映像を見たような気もするけれど、どれが自分の記憶で、どれが他人の撮った映像で、どれが自分の中で生まれてきた記憶なのかが、わたしにはもうわからない。
 前方に見える人が、もうわけのわからない動きになっている。頭と右腕と左腕と右足と左足が、それぞれ別の意思を持って動いているみたいで、ぐちゃぐちゃだった。わたしもそうだったら、いいな。あんなふうに動いていたら、うれしい。
 びゅうん、びゅうん、と音が飛んでくる。ROVOの音だ、と思う。体を振りながら正面を見上げると、高い建築物の窓の明かりの数は減っていなかったし、その白い四角に人影もなかった。一つもなかった。右を見上げた。屋上にアンテナをつけた庁舎の建物の窓にも、誰も現れなかった。一人もいないなんて、そんなことがあるだろうか。あそこにいるたぶんそれなりの人数の人たちのうち、日比谷野外音楽堂でなにが行われているのか、誰も気にならないなんて、信じられない。仕事をしているパソコンの前から、一歩も動けないのだろうか。ここでこんなにすごいことが起こっているって、まったく気づかないくらい集中しているんだろうか。だとしたら、知らせたい。今、ここで、すごいことが、起こってる。さっきから、ずっと続いてる。窓に近づいて、見下ろして。ここを見て。人影が現れたら、手を振るから。
 見て!すごいねんって!
 全部の楽器の音が集束し、すっと静かになるのと同時に、大勢の人が発した声が巨大な歓声になって空に昇っていった。また新しい音楽が始まると、映像が変わって、ステージよりも広い範囲に大きな映像が映った。周りのふさふさした木々にもステージにも、七色の、虹の色の水面みたいなものができて、そこに虹の色の雨粒が落ちてきた。雨は少し強くなっていて、わたしはそれでも合羽を着なかったが、どんどん落ちてくる雨の粒と、光で作られた虹色の雨の粒と水面が、同じものになっていって、あの大きな虹の色の塊が、わたしにも次々と降りかかってくるようだった。虹の色の雨粒は、虹の色の水面に落ちて混ざって同じ色になって溶けた。それが繰り返された。音楽は、ゆったりした速さになって、ぴろぴろ、きらきらした音が生み出されて、聞こえる。わたしの体は、音がゆっくりになればゆっくり動き、速くなれば速くなり、変則的なリズムになればまたそれに同調していく。
 この曲は、もらったCDの曲、と思った。数週間前に、編集者の人がCDをくれた。まだ発売されていない新しいアルバムのサンプル盤で、わたしが小説にROVOのことを書いたから、その人が、ほんとうは人にあげてはいけないものだけれど柴崎さんが持っているぼうがいいと思うので、と言って、くれた。わたしもそう思った。そのCDに、フライヤーが入っていて、2008・5・5(祝)宇宙の日 日比谷野外音楽堂、と書いてあった。宇宙の日、行くんです、とわたしは言った。
 だから、今日は宇宙の日。雨天決行。
 音が変わると、わたしの体の揺れかたも変わる。周りにいる人たちの動きかたも変わる。一人ひとり、誰もが音楽とだけいっしょで、たった一人でばらばらに動いているけれど、音楽で起きる波のようになって、あっちこっちでその波が弾けているみたいに見える。わたしも波に見えたい。音楽で起きた波になりたい。
 また音が速くなる。速くなって昇っていく。止められないくらいに、昇っていく。わたしの中は、音と揺れだけになって、振動し続ける。たぶん、これはすごいことだ。めったにないような、とんでもないこと。だだだだっだっだ、とぅるるるっるる、みゅーんみゅーん。ときどき、空が目に入る。上にあるのか下にあるのか、わからない。そこから、水が降り注ぐ。頭がぐらぐらする。音が果てしなく繰り返す。繰り返している。
 「今日は、なんかすごく楽しい」
 曲が終わって、ステージの右側でエレクトリックバイオリンを弾いていた人が言った。観客が、わーっと声を上げた。やっぱり、そうなんや!今日は、すごいんや!ここにいる人はみんな、楽しいんや!
 わたしはうれしかった。こんなにうれしいことはそうそうないくらいに、うれしかった。
 空を見上げた。雨が、止んでいた。右へ首を回して、建物を見た。窓はなんの影もなく白く光っていた。来たらいいのに。みんな、ここに来たらいいのに。こんなに楽しいのに。なんで来えへんの?
水を飲んだ。
新しい曲が始まって、新しい音が聞こえてきた。ゆっくり体を動かす。足の下のコンクリートの硬さが、体にはね返る。宇宙みたいな音が演奏されている。日比谷野外音楽堂というところを、最初に知ったのは好きな漫画の中で、それから好きなバンドがライブをしていたから、何度も名前を聞いた。わたしは大阪にいたから、大阪城公園の野外音楽堂には何度か行ったことがあって、そこもとても好きで、日比谷野外音楽堂にずっと行ってみたかった。今日は初めて日比谷野外音楽堂に来たから、うれしかった。大阪城公園の野外音楽堂に似ていて、それから木がとても大きくてふさふさしていて、うれしい。宇宙の日で、うれしい。ここはいいところだと、来たことがなかった今までもずっと思っていたし、今日来て、これから先も、ずっと思っていると思う。
 ドラムが速い。速くてすごい。全部の音が速くなってすごい。自分の体の中に、なにかが湧いてくる。胴体の中に、なにか発生している。楽しい。ものすごく楽しい。
 正面の高層建築が目に入った。人は見えない。右の庁舎が見えた。人はいない。窓が光っているだけ。そのとき、わたしは突然わかった。そうか、あそこにいる人たちは、きっと、ROVOのライブが始まった瞬間に、音が聞こえて、この音はいったいなんなんだと思って仕事をしていたパソコンで慌てて調べたら今日は宇宙の日だったので、いてもたってもいられなくて、仕事をほったらかして、階段を駆け下り、日比谷公園へ向かった。だって、こんなすごいことが、目の前で起こっているのに、仕事なんてしていられるはずがないのだから。たくさんの人々が、目比谷野外音楽堂の周りに押し寄せて、聞こえてくる音楽に熱狂し、すばらしく茂ったクスノキやシイやアキニレの下で、わたしたちと同じように踊っている。よかった。
 雨は消えて、音楽が降り注ぐ。木は葉を茂らせ、水っぽい花のにおいを拡げる。ステージの上にはまた光の柱が現れ、赤い光が点滅しながら上へ上へと動いている。どれくらい時間が経ったのか、わからない。この音楽が、いつまで続くのかわからない。今の瞬間、音楽があって、わたしはそれを聞いている。
 白い半透明の合羽を着た大勢の人たちも、ただひたすら音楽を聞いている。
 いつか、この音楽が終わって、日比谷野外音楽堂の外へ出たら、あの建物にいた人たちや、公園にいたほかの人たちや、近くを通りかかった人たちが、いっぱいいて、今日は楽しかったね、すごかったね、と言い合って、手を取り合ったり、もしかしたら抱き合ったりするのかもしれない。それから日比谷公園で朝までビールを飲んで大騒ぎをするんだろうな。
 ドラムの音、バイオリンの音、ギターの音、キーボードの音。どれがどれなのかもうわからないし、この音楽を形容したり説明したりしようと思わなくなって、ただ、この音楽の中にいることが、わたしは好きだと思った。わたしはライブのとき、たいてい別のことを考えていて、それは小説のことだったりここにはいない人のことだったりするのだけれど、それはその音楽を聞いて浮かんでくることだから、関係ないことではなくて、切り離せないことだった。
 湿気がウインドブレーカーの中にも外にも溢れ、その湿った空気にクスノキやシイの花のにおいが濃度を増して漂っていた。わたしの足は、自分の鞄を踏み、ベンチにぶつかって、ペットボトルは転がり落ちた。
 いくつかの色のライトが、ステージを照らしていた。ステージのライトが客席を照らし、強く白い光がわたしの目にも飛び込んできた。その光に、たくさんの人の頭が影になって見えた。音楽はずっと続いて止むことがなく、連休で人の少ない街に、響き続けた。光も音楽も同じだった。

『文藝』2008年冬号掲載

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